島根県松江市。決してテニスが盛んとはいえない地域から、錦織圭は羽ばたいた。5歳のときに初めてラケットを握った少年が全国レベルで頭角を現したのは、2001年の全国選抜ジュニアと全国小学生大会だ。どちらも優勝した錦織は、松岡修造氏によって彼が主宰する「修造チャレンジ・トップジュニアキャンプ」に抜擢。ここから錦織の世界への歩みが始まった……。

目立たなかった小柄な少年

松岡氏によると、最年少クラスの錦織は小柄で目立たない少年だったが、「コートでは大きく見え、とくに試合形式の練習になると中学生や高校生までも倒した」そうだ。さらに、「ボールさばきやインパクト時の勢い、体の使い方などテニスの才能は抜きん出ていた」とふりかえる。だから、技術的な指導はほとんどしなかったという。錦織にとって幸いだったことは、こうして、のちに13歳でアメリカに渡るまで日本的な指導のわくにはめられなかったことだろう。

修造キャンプには当時のデビスカップ代表選手も参加することがあり、プロたちは皆錦織と打ちたがったというから、そのテニスの(おもしろさ)は当時から抜きん出ていたと思われる。錦織にとっても、幼い頃から自分よりはるかに体も大きい先輩や、ましてやプロと打ち合った経験は貴重だった。のちに世界の強豪を相手にしても堂々と戦える素地が備わったことだろう。

13歳で単身渡米を決意

日本テニス協会の会長を2000年から務めた盛田正明氏が、ジュニア育成のために私財を投じて設立した「盛田ファンド」の名は、後の錦織の活躍ですっかり一般的にも知られるものとなった。日本の才能あるジュニアを米国フロリダ州ブラデントンにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに派遣するシステムが生まれたのだ。アンドレ・アガシ(アメリカ)やマリア・シャラポワ(ロシア)など数々のトッププロを輩出し、「スター製造工場」と呼ばれたアカデミーである。錦織は13歳のときにこの派遣メンバーに選出された。両親の進んだ考え方が後押ししたことは確かだが、最終的に決断したのは錦織自身だったという。

意外にも肌に合ったアメリカ

留学は基本的に2年間。しかし、2年もたたずに帰って来る子もいるなかで、錦織は音をあげなかった。留学期間は延長され、そこが錦織の拠点となった。盛田前会長は「圭君はシャイだから心配していたんですよ。でも意外にむこうのほうがあっているのかな」と目を細めていたことがある。錦織も渡米から4年後、全仏オープン・ジュニアのダブルスで優勝したときに「英語がわからなかったのは辛かったし、ホームシックにもなったけど、日本にいるみたいにプレッシャーを感じないのは良かった」と話していた。日本にいれば、どこに行っても天才少年などと騒がれただろうが、アメリカでは周囲の声に惑わされることはなかった。錦織の柔軟なテニスとメンタリティーはそういう環境だからこそ育ったのだろう。

生活費、遠征費、コーチ費など一切をファンドが負担してくれた恩人盛田氏と、世界への扉を開くきっかけを与えてくれた松岡氏の前でプレーするときが一番緊張するのだと、16歳の錦織ははにかんだ。そういえば、人前で話すのが苦手でモジモジしていた当時の印象は、いつの間にか消えている。

世界のトップ選手の練習相手も

この全仏ジュニアの決勝のあと、当時世界2位で大会2連覇を狙うラファエル・ナダル(スペイン)の決勝前日の練習相手になったことも、当時からIMGがどれほど錦織に期待し、注目を浴びていたかを知るエピソードだ。ナダルは、数年後にそのジュニアとウインブルドンのセンターコートで対戦することを予感しただろうか。錦織はのちにロジャー・フェデラー(スイス)とも練習する機会を得たり、元王者のグスタボ・クエルテン(ブラジル)とダブルスを組んだりもしている。10代の頃からのこうした経験が、高いモチベーションとなり、今の錦織を作っていることは間違いない。

18歳で予選からツアー優勝の快挙

テニス界で錦織のことを知らない人はいなかったが、それが「錦織を知らない日本人はいない」レベルまで拡大したのは、2008年2月のことだった。当時世界ランク244位だった18歳の錦織圭は、アメリカのデルレービーチ国際で予選から勝ち上がり、なんと優勝。日本男子としては1992年に韓国オープンを制した松岡に次ぐ史上2人目のツアー優勝、そして18歳2カ月でのツアー優勝は98年にレイトン・ヒューイット(オーストラリア)が16歳11カ月で優勝して以来の年少記録だった。

ただでさえオリンピックイヤーでスポーツ界が盛り上がっていたところへ、彗星のごとく現れた「テニスの王子様」を、新聞やスポーツニュースはおろか、ワイドショーまで朝から晩まで取り上げるフィーバーぶりだった。錦織が歩んできたサクセスストーリーも、日本人の感性によくマッチしたのかもしれない。ジャンプしながら繰り出すショットは“エアK”という呼び名で広まり、アグレッシブで奇想天外なプレーは多くのファンを惹き付けた。

肘の故障を経て、トップ10への階段を駆け上る

その年の夏、錦織旋風が再び吹き荒れる。全米オープンで当時世界5位のダビド・フェレールを破り、4回戦に進出。その後3月から右肘の故障で戦列を離れた。結局ほぼ1年もの期間を要して56位まであげていたランキングは完全に消失。「いつまたテニスができるのかもわからない」というどん底の日々だったというが、1年ぶりに復帰すると、ブランクを取り戻すような勢いで、2010年の終わりにはトップ100にカムバック。

2011年はさらにビッグイヤーとなった。とくにシーズン終盤、世界王者ノバク・ジョコビッチ(セルビア)や全豪オープン・ファイナリストのジョーウイルフライ・ツォンガ(フランス)らトップ10からの勝ち星を重ね、ずっと目標にしてきた松岡氏が持つ日本男子歴代最高位の46位を破るばかりか、シーズン末には世界ランクを日本男子史上最高の24位にあげた。

今年も快進撃は止まらず、全豪オープンでのグランドスラム初ベスト8入りの興奮は記憶に新しい。トップ10入りも現実的になった今、錦織が抱く夢に、日本のファンも酔いしれている。

情報提供:テニスマガジン