つい先日の娘との勉強を通してのコミュニケーションに対して怒りや苛立ちを感じたことです。
毎朝、幼稚園に行く前に公文をやるように習慣化にしています。大体ひと科目が10分〜15分、30分あればできるわけで、しかしそう簡単には物事はすすんではくれないのです。
身体は起きてても頭が起きていなく、朝全く反応していない。
時間をすでに計っているのにずーと鉛筆削りをまわしている。
違うとこ見てたり、すぐきょろきょろしたりと。
問題集では「きつつき」を読むのに、きつ、は読めて、つき、が読めない。
「にじゅういち」、と言いながら12を書く。
点つなぎプリントでは線を結ぶのに、34,35,36、そして37、の前に、引っかけで近くに38、があるとすぐに、35,36,38、と線を結んでそのミスに気がつかない。
「たこ」という文字を、なぜか「いか」と読む。(絵でないです文字をです)
僕としては本当にその神経回路が理解できません。
怒りの対象は自分自身にであった
しかしよくよく考えてみると、まっくゼロであった神経回路を作り上げていくことが目的であります。しかもすべてが生まれてはじめてなことで、最初からできることが前提と考えている自分に問題があるのです。そしてその苛立ちは誰に感じていたかというと娘ではなくまったくもって感情的になる自分自身に対してでした。
なぜそんな事に苛立つ?なぜ机を叩く?なぜそんな嫌みをいう?なぜそんな態度をとる?
あきらかに効率の悪い、精神衛生にも悪いことをしている自分
国語、ズンズン、から算数にまで、時間がたつととともにまるで虐待でもしているのはないかという気持ちになり、すべてを投げ出したくなります。算数を終わったあとにはヘトヘトになります。残るのは自己嫌悪。本当に自分がイヤになります。
嘘でもいいから、「うん、うん、良いんだよそれで!」と笑顔で対応したらどうかとさえ思うが、そこに肉親ならではの「感情」というものが入ってきてしまうのでコントロールが効きません。
そして以前にも言ったように、そのような自分の態度は娘にそのままうつってしまいます。また、そんなことしたからといって解決するかといったら、全く以てしません。
そう僕は、明らかに効率の悪い、そして精神衛生にも悪いことをしているのです。
危機感を感じたので一度冷静になり、その怒りについて考えてみた
僕が怒りを感じる事は、「できない」や「間違い」に対してではありません。物事に対して真剣に取り組んでいない。トライをしていない。軽率な発言や行動、そして不注意に対して怒っている。
しかし、その間違いを訂正するのも、感情的になったり威圧的になったりしても根本的な改善は見込めないこともわかりました。
「なぜ」を突き詰めないことには何も改善されない
なぜできなかったのか、なぜ同じミスをしたのか。なぜ集中できなかったのか、このなぜを突き詰めないことには何も改善されない。そしてこれが駄目なら他のアプローチを試すこと、取り組む内容が大き過ぎればより砕いて取り組ませること、勉強を通して思考法も磨くこと。少しでも毎日進歩すること。
その為には工夫が必要。工夫が必要と言うことは自分も常に頭を働かせる事が必要である。自分の偏った考え方を押しつけるのではなく常に最善の方法を探すこと。
そして次の日の朝も公文を行いました。こうなったときはこうと自分でシュミレーションしてから娘との勉強に取り組みました。中盤今までだったらイラッとする場面もありましたが、一呼吸し、違うアプローチをしたら、すぐにできるようになりました。
娘よパパも一緒に成長させてくれ!
何よりも学んでいるのは自分自身でありした。
コメント
えらい!!
コーチをしていると、つい錯覚していることを、娘さんが
教えてくれていました。
コーチとして、さらに成長することと期待します。
(昔、自分もそうだった教師より)
どうしても感情的になる自分が許せないです。頑張ります。
子供は一番の先生だよね。
はじめてお父さんを体験させてくれた大先生です。