2012年、日本は男子国別対抗戦デビスカップのワールドグループ1回戦でクロアチアに敗れた。27年ぶりのワールドグループ復帰戦であり、全豪オープンでベスト8入りした錦織の凱旋試合とあって、チケットはネットオークションで3万円以上にまで高騰する勢いであった!

現在デビスカップの参加国は130カ国。そのうちたった16カ国で構成されるのがワールドグループで、過去27年間、復帰は日本の悲願。しかし、まだデ杯の参加国がわずか10カ国しかなかった1920年代から日本はその1員であり、ときにはなんと優勝戦線にからむ活躍をみせていたのだ。

硬式テニスが日本に紹介されたのは明治のなかばといわれるが、当時は用具が高価だったため、結果として先に普及したのは、安価に用具を購入できる軟式テニスだった。しかし大正に入ると、国際交流を目指しての硬式転向の気運が高まる。その先駆けだった慶應義塾大テニス部員の熊谷一弥は、1920年のアントワープ五輪で銀メダルを獲得。柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルに輝いた。これが日本のオリンピック史上におけるメダル第1号だったことは、今となっては一般的にほとんど知られていない、ちょっとした「トリビア」である。

このほかにも戦前戦後の教科書にもスポーツの美談として掲載された「やわらかなボール」の主人公、清水善造はインドのカルカッタ(コルカタ)に商社の社員として駐在した時期に芝のテニスに親しみ、アントワープ五輪と同じ年のウインブルドンに日本人として初めて出場。前年優勝者に挑戦する権利を得るための「オールカマーズ」の決勝まで進み、日本テニスの名を広く世界に知らしめた。

これほどの陣容を誇った日本はアメリカからデビスカップへの誘いを受け、1921年に初参加。日本はインド、オーストラリア、ニュージーランド連合の強豪を連破し、前年優勝チームへの挑戦するチャレンジラウンドへ進出。アジアの島国からやってきた小さな男たちの快進撃は世界を驚かせたが、最後はアメリカに0−5で敗れた。

日本のデビスカップでの活躍はこれにとどまらず、1926年と翌27年にも優勝に迫る成績を残している。両年とも米国ゾーンで優勝し、インターゾーン決勝(米国ゾーン優勝国と欧州ゾーン優勝国の対戦)でフランスに敗れた。

30年代前半に目覚ましい活躍をしたのが、先の全豪オープンでの錦織の活躍で再び脚光を浴びることになった佐藤次郎だ。ウインブルドン複準優勝などの実績を持ち、錦織の全豪ベスト8入りは、80年前の佐藤以来の成績だった(当時のドローは32)。この佐藤が1934年(昭和9年)にデ杯遠征途上、マラッカ海峡で投身自殺をはかったことはテニス界ではあまりにも有名な話である。佐藤の最期はその後の暗い時代を暗示するかのようでもあるが、第2次大戦をはさみ、50年代まで世界で活躍する選手は現れないこととなる。

戦後最初にもたらされた朗報、それは宮城淳/加茂公成組が全米ダブルス選手権(のちの全米オープン・ダブルス)の男子ダブルスで優勝したことであり、日本人同士のコンビで獲得した唯一のグランドスラム・タイトルである。

日本にもプロ誕生、世界へ挑戦

1968年のオープン化以降、日本でもプロが誕生する。71年、当時日本庭球協会の選手会会長だった石黒修が第1号となり、プロテニス協会を設立すると、その後もプロ転向選手が続出。なかでも神和住純は74年に国際プロツアー(WCT)と契約して世界で活躍した。

WCTとは、オープン化以降ATPツアーが確立する90年までの間、プロツアーを運営していた最大組織。個々に選手と契約し、運営するトーナメントに出場させ、その結果から独自のランキングを作っていた。

このようにテニス界がめまぐるしく変化した70年代、日本選手はかなりの数で海外遠征を行い、グランドスラムにも挑戦している。神和住のほか、坂井利郎、九鬼潤、田辺清らがこの時代のグランドスラム大会に挑み、神和住、坂井は3回戦進出の経験もある。
しかし田辺が78年の全仏に出場してから、88年全豪に松岡修造が予選から勝ち上がって本戦入りを果たすまでの10年間は、グランドスラムの舞台に日本男子の姿は見られなかった。その背景には、日本国内でのテニス人気の高まりがあったと思われる。矛盾するようだが、国内でテニスが普及すればするほど、わざわざリスクのある挑戦をしに国外へ出て行かなくても日本国内で十分「仕事」が成り立ったのだ。

そのなかで唯一世界の荒波に飛び込んでいったのが松岡修造だった。松岡は92年4月に韓国オープンで日本男子史上初のツアーシングルスで優勝し、同年ウインブルドンの前哨戦で「クイーンズ」の通称で知られるステラアルトワ・グラスコート選手権で、世界2位のステファン・エドバーグを破って決勝進出を果たした。故障が多いことでも知られた松岡は、それらを乗り越えながら95年にウインブルドンのベスト8までたどり着いたことは有名だ。恵まれた体格があったことは確かだが、ほかの日本人には見られない並外れた“根性”が偉大な挑戦を可能にしたのだろう。

松岡の登場以降、若い世代が再び世界へ目を向けるようになり、挑戦を続けたが、世界の壁は高かった。錦織が08年ウインブルドンでグランドスラム・デビューを果たすまでの間、グランドスラムの本戦出場を果たした選手はわずか4人。辻野隆三(94年全豪)、鈴木貴男(99、01、05年全豪、99、03年ウインブルドン、99、04年全米)、本村剛一(00年全豪)、添田豪(07年全豪)である。

日本男子、夢の最強時代へ

錦織の歩みについては別項に譲るとして、錦織の登場が促した昨今の日本男子の躍進ぶりについて最期に触れておきたい。

2011年4月、添田が26歳にして念願の100位の壁を破り、36年ぶりに複数の日本男子の名がトップ100に刻まれた。添田はその後、全仏、ウインブルドン、全米とグランドスラム3大会連続出場を果たし、全米では、錦織よりひとつ年上のいわゆる“錦織世代”である伊藤竜馬も本戦ストレートイン。日本男子3人のグランドスラム本戦出場は、74年の全仏オープン以来最多だった。また、9月のデビスカップでインドを破って27年ぶりのワールドグループ復帰を遂げたことは、冒頭で触れたとおりである。

今年の全豪で早くもグランドスラム初勝利を挙げた伊藤は、3月に初めてトップ100を突破。ATPが現行のコンピュータ・ランキングシステムを導入した73年以来、日本選手3人の名がトップ100に刻まれるのは初めての快挙だった。添田のランキングは最新で67位まで上昇している。錦織のみならず、日本男子はかつてないラッシュを迎えている。

情報提供:テニスマガジン