杉田祐一選手

「昔はほんと弱かったです」
幼少期を振り返り照れながらそう語るのは、今年アンタルヤ・オープンで日本人3人目のツアー優勝をし、自己最高ランキング43位、松岡修造を超え錦織に続く選手となった杉田祐一だった。

小さいころからテニスが好きで、ストイック。だからここまでやってきた。
結果が出ずに悔しい思いも多く経験してきた。

そんな彼が2017年7月6日ウィンブルドン2回戦、3時間半の激戦の末に敗れてしまったが、発した言葉は
――「出し切った」だった。

「良いグラスコートシーズンだった。自分のベストなプレーが出せれば、かなりの選手に勝てるという自信がついた」と。

帰国後、1時間半のインタビューの中で、彼は何度も「勝てなかった」と悔しさを隠すように、少し微笑みながら言ったが、その後に続く言葉は「目指すものがある」と前を向いていた。

杉田祐一のテニス人生(前編)

インタビューは中学時代から杉田に注目してきたバボラの大塚氏と、同じ頃から杉田を知るテニス関係者と共に和やかな雰囲気で行われた。

――「当時は全然勝てなかったな」
28歳、決して若手とはいえない彼は、これまでを思い出し最初にそう口を開く。

(テニスを始めたのはいつ?)

――「7歳。母がずっとやっていて。姉もやっていたので初めは遊び感覚で始めました。姉はすぐやめちゃったけど。僕は続けましたね」

(どうして続けようと思ったの?)

――「テニスが好きだったから。おもしろくて」

小学1年生の3学期、家族の影響でテニスを始めた杉田。
テニスが純粋に楽しくて、他のスポーツは特にやらなかったという。

初めて試合に出たのは小学3年生の頃。

――「その時の記憶はうろ覚えで……。でもみんな強かった」と懐かしそうに遠くを見た。

杉田は段々と仙台で頭角を現し、小学5年生の時、初めて全国小学生大会の東北地区代表になる。全国区の試合に出るも、1回戦敗退。
小学6年、2000年の大会では2回戦進出も、優勝する喜多文明に6-0,6-2で負けた。
この時、小5だった錦織圭はベスト8。(翌年優勝)
錦織とはコンソレで初対戦するも、勝利を掴めなかったという。

全国の優秀な子供達と試合するようになり、テニスが強くなりたい一心で仙台から柏のTTCに通い始める。そして中学2年の時、柏に姉と二人だけでテニスのために引越をした。

その後、プロの試合に出場したのは2003年9月柏で行われたJapan F6。
15歳の誕生日を数日後に控えた中学3年生、松井俊英に1-6,1-6で敗れた。

他の優秀なジュニアに比べ、目立った成績は残していなかった杉田祐一。しかし、バボラの大塚氏は、この時すでに杉田に光るものがあったという。


――「この子は他の子と違う。負けん気というか、食らいつくガッツがあった」と。

その発言通り、高校に上がると同時に、まだ無名の杉田に声をかけた。

――「いや、ほんとびっくりですよ。だって僕全然勝ってなかったし。恩人というか、こんな僕に声をかけてくれてほんと感謝しかないです」

笑いながら話す二人は、メーカーと選手の関係ではなく、そこにはなにか長年の信頼が感じられた。

後編に続く

インタビュアー:塚越亘 記事ライター:塚越景子 撮影:山本常知 取材協力:ダンロップスポーツ様