2013年春、プロ入りした直後に昭和の森のフューチャーズで優勝を飾った斉藤貴史は、これから始まるプロ生活に何の曇りもなく、自分の可能性を信じていた。

「頑張ります」ではなく、「頑張れますよ」という彼特有の口調に、やんちゃで頼もしい選手が出てきたな、と感じたものだった。

2022年2月、テニス日本リーグにて9年の現役生活を終えた斉藤は、やりきった清々しさではなく、チームが優勝できなかった悔しさとともに、現役生活を振り返った。

「テニスを始めて20年、プロとして9年やってきて、長かったな、というのが正直な気持ちです」

母親がコーチということからラケットを手にし、来る日も来る日もボールを打つ時間に費やしていた。ジュニア時代に戦績を残した彼は、北東北インターハイで3回戦敗退を喫した後、他の選手たちが試合をしている光景を見ながら「このまま大学に行って就職するのかな、と思い、そういう生き方はしたくない」と感じてプロになることを決める。

2年目には全日本選手権でベスト4入り、翌年には軽井沢フューチャーズで2つ目のタイトルを手にした彼のキャリアは、順風満帆に見えた。

しかし、それ以降は故障との戦いだった。2015年に左手首、翌年には右手首にメスを入れ、術後も経過が思わしくなく、結局、17年に復帰するまで約1年2か月を費やした。

引退も考え、自分と向き合い、それでも復帰の道を選んだ斉藤だが、この故障が自分のキャリアに影を落としたことを自覚する。

「だからやりきったとは正直言えない。どれだけやってもそれが直接結果に結びつかないところが、苦しかったし、しんどかった」

そして、それも踏まえて自分の実力だと語る。「プロの選手は体で仕事をしています。鍛えることも、故障することもその一つ。怪我をして手術して復帰して、それでも痛かったのは、僕の体がテニスというスポーツに耐えられなかった。うまく対応できなかったということです」

“長かった”と感じるのは、その道のりが決して楽な道のりではなかったからだろう。

橋本総業HDのキャプテンとして、高校の後輩である田沼諒太と組んだテニス日本リーグでのダブルスが、公式戦としては最後の試合となった。写真/伊藤功巳

■ 3月19日、ラストマッチは感謝の集大成

区切りをつけて新たな道を進もうとしている彼の選択肢にテニスはない。2月に27歳を迎えた斉藤は、新しいことを始める期待感を持ちつつ、「何をやるにしても、テニスでいえば初心者なので、楽観視はしていない」と気を引き締める。

「自分は“そこそこ”が嫌で、何かでかいことしたいと思っているので、だからこそ楽観視できません。これは自分の幸福論なのですが、結局何かを追い求めてしまうと思う。人から評価されたい、人とは違うことをしたい。そういうことができて初めて達成感だったり、喜びだったりを味わえる性格なので。それだけ一所懸命やって、人が簡単にはできないようなことをしたい」

公式戦としては日本リーグの準決勝、田沼諒太とのダブルスがラストマッチとなったが、3月19日、彼の出身地である、石川県津幡町にて行う江原弘泰とのエキジビションマッチが、本当の意味で最後となる。

「僕がテニスをしている姿をあまり見せられなかったので、支えてくれた親や地元のみなさんの前で試合をして、自分の言葉でお礼を言いたい」

また、この試合は斉藤にとってのテニス人生への感謝の思いも込められている。

「海外に5、60カ国行けるなんて、普通の生活をしていたらできないこと。大きな会場で注目してもらって、お客さんに自分が積み上げてきたことを披露する舞台がある環境はなかなかありません。テニスを通して、そういう生活ができたことは本当に感謝しています」

「自分、テニスが好きかと言われたら、そうではありませんでした」
ファンには少し悲しい言葉ではあるが、そこは彼らしく、こう続けた。「でも、好きじゃないのにここまでできたって、すごくないですか?」

テニスファンを増やそうと、自らイベントを企画、運営し、SNSやYouTubeでは他の選手が言いにくいことも躊躇なく発信してきた。積み重ねの苦しさも、勝利の喜びも、全てにおいて真剣に向き合う、斉藤のパーソナリティに投影されている。

地元、津幡での試合を終えた時、彼はどのような気持ちになるのだろうか?

願わくは、「やりきった」と思ってほしい。

文/保坂明美 写真/伊藤功巳

斉藤貴史オフィシャルブログ

斉藤貴史公式戦ラストマッチ!テニス日本リーグ