そして、三つ目が引退記者会見で国枝本人が胸を張った「車いすテニスをスポーツとして確立させたこと」だ。
2004年、アテネパラリンピックでダブルス金メダルを獲得した時には、新聞のスポーツ欄での扱いも小さく、「これはまだスポーツいうより、福祉、社会的な意義があるという形で、伝わっていると思った」という。
「以前は、車いすテニスをやっているというと『偉いね』と言われました。僕にとっては、偉いことではなく、目の悪い人がメガネをかけるのと同じように、足が悪いから車いすでスポーツをしているだけで、特別なものでありません」
だからこそ、車いすテニスを通して、競技自体の面白さ、魅力を伝えなければと思った。そのためには、人々が感動や興奮するスポーツという舞台に持っていかないといけないという、使命感を抱いた。
そういった意味で、2019年より男子のATPツアー、ジャパンオープンの一つに車いすテニスが加わったこと、そして、東京パラリンピック終了後の熱狂と反響は「ものすごく手応えがあった」という。
北京パラリンピックでシングルスの金メダルを獲得した翌年の2009年には、日本人初のプロ車いすテニスプレーヤーとなり、後進への道を切り拓いた。
「2位、3位の時には、前にいる人の背中を見ていましたが、1位になった瞬間、それが見えなくなってしまうことが難しさとしてあった。現状維持では総体的には衰退しているということ。自分の中で課題を見つけ、いかに成長していくかというところが、難しさでもあり、面白さでもあった」
技術や戦術において新しいものを取り入れ、世界1位という現状に満足せず、さらに進化し、スポーツとしての魅力を伝えた国枝の背中は、全ての人のロールモデルといえるだろう。
取材:保坂明美 写真:鯉沼宣之